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矢作良治と和泉学校

泉区の中心として開発が進む和泉地区

13.矢作良治(やはぎりょうじ)と和泉学校

和泉学校卒業証書 
和泉学校卒業証書
区内で最も古い忠魂碑 
区内で最も古い忠魂碑

 明治六年(一八七三)、和泉村に「第十中学区鎌倉郡第百九十八番小学和泉学舎」という小学校が設立された。教員は一人で、九十七人の生徒を教えていた。

 富塚学舎(戸塚小学校)の明治六年の日誌に和泉学校の教員山村古泉の名前が見えることから、開校当時は、山村古泉一人が教鞭をとっていたのであろう。

 開校当時、宝心寺の庫裏を仮校舎として使用していたのか。皇国地誌に「公立小校、和泉学校と称す。東西九間、南北十一間、面積九十九坪、本村西の方にあり仮に宝心寺庫裏を用う」とあるように、明治十二年当時は、宝心寺の庫裏を仮校舎として授業を行っていたようである。

 「神奈川県統計書」によると、明治十四年頃は、矢作良治をはじめ六人の教員が百四十二人の生徒を教えていたとあるが、山村金平氏所蔵の文書「明治十四年二月より十二月迄学校費清算帳」によると、矢作良治、山村古泉、清水久吉の三人に給与を支給している。

 このことから、教員六人ではなく、実際は三人の教員が教鞭をとっていたと考えられる。

 当時、和泉学校の校長または首席教員だった矢作良治は、秋田県出身の人であった。中和泉の左馬神社境内にたっている忠魂碑によると、矢作良治は、佐竹藩士矢作浅平の長男として生まれた。佐竹藩士がどうして、和泉学校の教員になったのか。明治維新で武士の身分を失い新しい生活を求めてこの地に来住したのであろうか。

 明治十五年、学務委員の清水源右衛門と天笠喜三郎の肝入りで、和泉学校の建築を行った。木材は、鎌倉材木座の校舎を買い受けて行った。同時に、四谷分校の新築も行われた。ここに和泉学校は独立の校舎をもったのである。

和泉学校通常予算
一 弐百五拾円
内  訳
 金 百八拾円 教員以下給料
 金  拾五円 分校家賃
 金  拾弐円 学務委員給料
 金 参拾五円 書籍器械買入代
 金  拾五円 生徒試験入費
 金  拾弐円 墨薪油等雑費
小以 金弐百六拾九円
 内金 拾九円 生徒月謝
右の通り、予算相立候也
      和泉学校学務委員
         清水源右衛門
         天笠喜三郎
 和泉村 下飯田村
戸長役場 御中

上記は、明治十五年の学校の年間予算である。

 和泉学校に生徒が通った和泉村と下飯田村が村高に応じて負担していたようである。

 明治二十三年和泉学校は、中田学校、飯田学校と合併して、中和田学校となった。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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