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領主石巻康敬と中田村

早くから住宅地として開けた中田地区

5.領主石巻康敬(いしまきやすたか)と中田村

 石巻康敬の墓
石巻康敬の墓
 五大夫橋
五大夫橋
 御霊神社の棟札(享保11年)
御霊神社の棟札(享保11年)

 江戸初期に中田村の領主になった石巻康敬家は、戦国期の小田原北条時代に、後北条(ごほうじょう)氏の評定衆(ひょうじょうしゅう)や相模西郡の郡代を代々勤めた家である。

 石巻康敬の先祖は、今の愛知県である三河国八名郡石巻の出身であり、伊勢長氏(北条早雲)以来の家臣であったことはほぼ定説になっている。

 小田原北条関係の研究書を見ると、石巻家は先祖の某‐家貞(家種)‐康保(やすもり)‐康敬(康保弟)と継承されたという。

 家貞は裁許(さいきょ)印判状に、石巻勘解由(かげゆ)左衛門尉(じょう)や、石巻下野守家種と記したため、別人と見られていた頃もあったが、花押(かおう)が極似していることや、その後発見された古文書等の研究の結果、最近は同一人とされている。

 康保は家貞の子で、家貞の没後家督を継ぎ石巻下野守を継承したという。

 次に中田村領主になった康敬であるが、康保の没後家督を継ぎ、下野守(しもつけのかみ)や左馬允(さまのじょう)などの受領名を継承した。康敬の読みは編年録や北条記では康敬(やすまさ)(昌)としている。

 康敬は没年が慶長十八年(一六一三)で八十歳死去であるから、生まれは天文(てんぶん)三年(一五三四)となる。とすれば、康敬は康保の子ではなく家貞の子で、康保の弟と位置付けるのが妥当であろう。

 天正十八年(一五九〇)七月、小田原落城によって秀吉の小田原攻めは終わった。駿河三枚橋城に抑留されていた石巻康敬は、徳川家康に預けられて中田村に蟄居(ちっきょ)させられた。

 敗軍の将とはいえ、戦国の時代に相模西郡郡代や評定衆を勤めた人である。蟄居のための部屋を用意し、警護を整えて康敬を迎え入れたのは、中田のどこの家だったのか、今それを確かめる証拠や資料は全くない。

 豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康は、この八月に江戸城に入るのだが、その途次、家臣の本多佐渡守正信を中田村に行かせて、蟄居中の石巻康敬をその頃戸塚の中心で、伝馬の駅もあったと思われる今の戸塚区吉田町に呼んでいる。

 ブリジストン横浜工場前の舞岡川に架かる橋の名を「五大夫橋(ごだゆうばし)」というが、この橋の名は前記したように、石巻康敬が小田原時代に石巻五大夫と呼ばれており、家康と康敬が会った場所だったからやがて五大夫橋と呼ばれるようになったという。また別説では、家康と接見した所は橋の袂(たもと)ではなく吉田のしかるべき所にあった。五大夫橋の起こりは、石巻家が後に橋の維持管理をするようになったからだという。

 石巻康敬家系図

 康敬(やすたか)―康貞(やすさだ)―康元(やすもと)―康宗(やすむね)―康久(やすひさ)―康隆(やすたか)―康福(やすとみ)―康由(やすよし)―栄吉(えいきち)―

 どちらが本当なのかわからないが、橋の袂で会うというのは芝居じみた後世の話のように思えるので、やはり橋の維持管理を石巻家がしたから橋名になったというのが本当かもしれない。

 新編相模風土記稿の記載によれば、「戸塚驛にて拝謁す、其後當村にて采地を賜ひ云々」とある。中田村を領地とせよという采地印状(さいちいんじょう)を渡される文禄(ぶんろく)元年まで、僅か一年五か月程なので、この時すでに蟄居を解かれたも同然だったのではないであろうか。康敷も家康と同じ三河出身である。家康は鎌倉郡の内に百十石余を采地として康敬に与えた。

 石巻康敬の蟄居の地や、領主になってからの石巻館がどこにあったのかは定かでないが、石巻館については、康敬が深く信仰していた十一面観音を祀る観音堂(稲葉堂)が明治まで康敬の墓所の隣にあったこと、また「お倉屋敷」と伝承されている場所が、館と推定される地の近くにあることから、寺や旧家が多く並び、持仏(じぶつ)堂である観音堂の近くに石巻館があったと思われる。

 康敬は慶長十八年十月一日、中田の石巻館で波乱に満ちた八十年の幕を閉じる。法名幻庵。中田寺には至徳院殿信誉歓翁宗喜大居士の位牌が安置されている。

 御霊(ごりょう)神社へ通じる道の、中田寺を過ぎてすぐ右手に酒店があるが、ここを右に折れて下った中田東四―五六―二四付近に、「殿様の墓」と呼ばれている墓地がある。「故従五位下(じゅうごいのげ)下野守石巻君墓」と刻まれた墓石が中央に建ち、回りは玉垣で囲われている。

 横浜市の登録文化財(地域指定)になっているこの墓石は、宝暦十二年(一七六二)九月、七代目の石巻康福(やすとみ)が康敬の百五十回忌に建てたものである。

 回りの玉垣の古いものは、文久二年(一八六二)三月に青木嘉平次、小山伊兵衛が寄進し、新しい御影石のものは昭和四十九年に、中田寺(ちゅうでんじ)檀信徒が寄進した。

 石巻康敬は御霊神社を崇敬し、中田村の鎮守として再興した。また中田寺の開基となっている。
 御霊神社には、石巻氏関係の棟札(むなふだ)が三枚残されているが、享保(きょうほう)十一年(一七二六)十二月吉日の棟札は石巻七郎左衛門康久の代のもので、社殿を再興した時のものである。また文政二年(一八一九)九月吉日の棟札は石巻元帰と記され、向拝(ごはい)の修復をした時のものである。何れもそれぞれの時代に、石巻家が当時の氏子とともに鎮守の護持に関わっていたことを知ることができる。

 なお中田で通称「お代官」と呼ばれている小山家は石巻家と深い関わりを持っているが、天保八年(一八三七)に領主の財政援助に寄与した功により、石巻領地の代官に任命された記録が小山家に残っている。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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