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神仏分離と實相院

早くから住宅地として開けた中田地区

2.神仏分離と實相院(じっそういん)

 神仏分離時の古文書
神仏分離時の古文書

 新編相模風土記稿の御霊社の項に『村の鎮守なり、本地仏大日を置く、祭礼九月二十七日、實相院持、以下略』とあり、また實相院の項に『当山派修験(しゅげん)、中略、本尊不動』とあるように、現御霊神社の宮本宮司家は明治元年(一八六八)に神仏分離令が発布されるまでは「實相院」という真言密教三寶院(さんぽういん)当山派修験の寺院の法主で御霊神社の別当職も兼ね勤めていた。

 宮本家の屋敷東端には實相院の不動堂と護摩堂(ごまどう)があったが、明治初期に全国的に行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりすべて撤去されて廃祀(はいし)となった。『法印大先達慶蔵院玄了居士、権大僧都慶蔵院養達法印峯位』などと墓石に刻まれているのは、それぞれ實相院法主の僧名であるが、御霊神社に残されている棟札にも「法主慶蔵院」と記されており、これらは神仏混淆(こんこう)時代の良き証(あかし)となろう。

 また境内西端のボーイスカウトの建物が建つ地やその前の広場から社有山林、更にその先の住宅地あたりまで昔は小さな沢が入っており、その湧水を溜めて弁天池からの水と一緒になるあたりで滝を落とし、水に打たれて修行する行場(ぎょうば)があった。(御霊神社を水源とする「宇田川」 参照)

 實相院が全盛の頃の話と思われるが、各地の真言密教系の山伏が集まって、修行の深さを競う「刃渡り」や「火渡り」の神事の後、池の水の上に紙を浮かせて、その上に乗って祈祷する秘儀が行われたが、どこそこの山伏は修業も深かったので、ちゃんと紙の上に乗って祈祷ができたのにどこそこの山伏は酒ばかり飲んでいるから、罰が当たって池に沈んで濡(ぬ)れ鼠(ねずみ)になってしまったなどと、地域の古老たちが話していた。この類の伝承にありがちな脚色も多少あろうが、昔ここに湧水を溜めた池があったことを物語る貴重な伝承である。

 皇国地誌に
「溜池、本村の北の方字宮の台にあり東西八間南北十四間三尺面積六十五坪深平均一丈一尺田一町一反二畝歩の用水に供す」
とあり、皇国地誌が発刊された明治十二年の段階では既に潅漑用水の溜池になっていたことがわかる。

 神仏分離で實祖院が廃祀(はいし)されてからは、皇国地誌記載の通り、滝を壊して堤防を築き、渇水時に村岡川沿いの水田を潤す灌漑用水池に変えた。最初は小規模な池だったようだが、昭和になってからは、中和田村の公費で数度にわたって改修が行われ、コンクリート製の水門や、満水時の排水路等を備えた本格的な農業用潅漑施設となり、「お宮の池」として近郷に知れわたった。夏になると悪童たちの水遊びの場になったが、湧水のため真夏でも水が冷たく、事故もあったりして遊泳は禁止されていた。

 昭和四十年頃、付近の住宅開発に伴って境内の緑陰が横浜市の「子供の遊び場」として貸与された。池には水が張られてはいなかったが、ザリガニが棲みつき、これを採る子どもたちに危険があったので、住宅造成残土で埋められた。

 今、境内社として祀られている日枝山王社、金比羅社、大日大聖(だいにちだいしょう)不動社は、神仏混淆時代に修験行場にそれぞれ祀られていたものを再興したものである。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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