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小菅家と梨の栽培

田園風景を今も残す下飯田地区

11.小菅(こすげ)家と梨の栽培

 昭和25年頃の野菜づくり
昭和25年頃の野菜づくり
梨の花粉づけをする小菅氏
 梨の花粉づけをする小菅氏
浜なしの作付面積のグラフ
浜なしの作付面積

 泉区では、果樹生産農家が増えている。手掛けられている果樹の種類を多い順に記すと、梨、柿、梅、ぶどう、さくらんぼ、りんご、挑などである。

 中でも梨は、近年になって作付け面積が増え、近隣の地区とも合わせて、横浜の梨という意味の「浜なし」という名で親しまれるようになってきた。が、ここにいたるまでには長い道のりがあり、その先駆的な役割を果たしたのが下飯田町の小菅家であった。

 昭和十六年、小菅家では、桃と梨の苗木を、試作品として植えたが、やがて戦時下となり、わずかの樹木を残すのが精一杯であったという。戦争の始まりとともに、食料増産の国策によって、養蚕のための桑畑でさえ、さつまいも、陸稲、麦等の主要食料の畑に変わっていった。したがって、当時は食料とは認められない果樹を育てることは、大変困難であった。

 戦後、当時は二宮町にあった「農事試験場」(現在は平塚)の指導のもと、「長十郎」という梨の育成に力が注がれ、数軒の農家が参画したが、病害虫とそれに対応する農薬が無いことにより、挫折の繰り返しであった。

 一方、桃の品種「白鳳」は気候風土に適していたこともあり、順調に生産が伸びた。昭和二十年代半ばには、中和田地区で百軒余りの農家が「白鳳」の生産を始め、相模川以東の地域に「湘南果樹組合連合会」が結成された。ところがまもなく生産過剰となり、せんこう病という病気にも悩まされ、生産を断念する農家が増え、三十年代に入って壊滅状態となった。

 この間、小菅光重は農産物による有利な現金収入の道を模索して様々な野菜にも挑戦し、セロリ、アスパラガス、アーティチョーク、リーキ、コーラビといった西洋種の野菜の栽培を試みている。光重は大正十二年頃、簡易フレームによる冬季のきゅうりづくりやトマトの栽培も手掛けた先駆的な人であった。やがて、高品質の肥料が開発され、奨励政策による肥料の配給も多くなり、各所で野菜づくりが活発化した。光重の子息伊賀氏も、結球白菜の「練床苗(ねりどこなえ)作り」の技術などを各所に指導した。各農協にも「野菜部」が発足し、きゅうり(相模半白)、ほうれん草、キャベツなど、現在につながる野菜が作られ、急速に野菜産地として発展した。

 ところが、小菅家ではこの肥料による土地の荒廃が一因となり、かえって梨の生産に心血を注ぐことになったということである。とはいうものの、「長十郎」をはじめこの地に合う「菊水」「旭」などの品種は市場で伸びなやみ、長い間、品種の改良が侍たれていた。

 昭和四十年代に入り、三水と呼ばれる「新水」「幸水」「豊水」などの新種が次々と導入されるようになり、需要も増え、にわかに梨の生産の気運が高まった。その後、この地に養護施設を作る要請があったのを機に、小菅家では、野菜などの畑地を梨畑に切り替えた。もとの梨畑はその歴史を語るかのように、昭和五十五年十一月、「なしの木学園」となっている。

 現在では梨の生産農家も増え、「浜なし」として定着してきた。この「浜なし」は、多年の教訓が生かされたための直売方式に特徴があり、近隣の人口増加に伴う消費者の増加と品質の良さに裏付けられて、泉区とその周辺の代表的な産物となった。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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