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泉区を横断する「長後街道」

第3章 道と川

7.泉区を横断する「長後街道」

中田小学校から望む長後街道
中田小学校から望む長後街道(昭和37年頃)

 戸塚町の一丁目から出発する長後街道は、矢沢、矢部、汲沢等の坂を登りつめ、岡津・藤沢道と交差するあたりが最高地点で、この一帯を踊場という。標高十七mの出発点から僅か一.三kmの道のりで五八.五mまで登るのだから、相当な坂である。

 踊場の十字路は矢部、汲沢、中田の境で、戸塚区と泉区の境界線にもなっている。この坂を中田側に下ると東原が眼前に開ける。地質学的にいうと下末吉段丘から相模野の台地に下りたことになる。このあたりの標高は四五mで、立場四二m、谷戸入口四〇m、旧泉消防署前三八m、上飯田団地入口三一mと、境川に向かって段々と下がっている。境川を越えるとまた徐々に登り、長後の小田急踏切付近で三九mになる。つまり長後まで六kmのうち、東原までの三分の一が坂道で、三分の二が平坦な道ということができる。

 昭和四十年頃までは、中田町では東原周辺、根下周辺、中西周辺、笹山、広町周辺、和泉町ではNTT泉営業所先の狐谷(きつねだん)、中和田小学校手前の谷戸、和泉川両岸、上飯田町では境川東岸の計八ヵ所に帯状の水田があり、その間に台地があって、住居、畑、森林などになっていた。

 長後街道はこの八条の耕地や台地を直角に貫いた形になっていたが、現在この街道沿いで水田の残っているのは、上飯田の境川沿いだけになってしまった。

 このあたりの河川は総て南に流れ、合流に合流を重ねて境川に入り、更に柏尾川を合わせ、末は片瀬川となって江の島の正面で相模湾に注いでいる。

  思い寄せても届かぬ恋は
      つらい浮世の片瀬波
                  
 (高橋掬太郎作詞)

の水になっている訳である。

 ところでいつごろから長後街道と呼ばれるようになったのであろうか。恐らく昭和五十年代以降のことであろうと思う。それまでこの地域では「厚木街道」と呼ばれて親しまれていた。

昭和50年頃の戸塚道
昭和50年頃の戸塚道(権現堂付近)

 長後街道の旧道を戸塚道といい、また大山道ともいっていたが、踊場を中田側に下って中田・さちが丘線入口の所で左斜めに入る狭い道が旧道で、下って行くと正面に家電製品の店があり、右折すると東原の信号にでる。長後街道を横切って家具店の裏の道を行くと、しらゆり公園へ通ずる道に出る。この手前周辺を権現堂(ごんげんどう)といった。むかし熊野三社権現が祀られていたからで、明治の寄宮で御霊神社に遷されている。

 しらゆり公園への道幅が広いのは、旧海軍の桑原部隊実習場がしらゆり公園一帯にあったからで、ここがその正面進入路であった。横断してさらに進むと右側にそば屋がある。その前の道端に、縁石で囲まれて島のように榊が植えられた中に庚申塔が祀られている。碑は道標も兼ねて「西、大山路、東、かしを道」と刻まれている。更に道なりに行くと長後街道にでる。東原の信号からここまでの約九〇〇mが、現在中田に残されている長後街道の旧道である「戸塚道」である。

 この道はこれから先、いまの道と絡み合いながら、和泉町の中和田老人憩いの家のところで、柏尾の不動坂から入ってきた大山道と合流する。一緒になった道は老人憩いの家の西側と、和泉川沿いに僅かな旧道を残して坂を上がり、旧消防署前の交差点で上飯田町に入る。間もなく左斜めに入る道が旧道で、八OOmほど続いている。

 新編相模風土記稿に「大山道村南に在て東西に貫く幅二間、高座郡千束村に達す」とある。旧道の傍らに「大山街道」という屋号の家が残り、坂を下り切った角に高札場があった。

 明治維新になってからは、農民も助郷役(すけごうやく)にでることもなくなり、安心して農事に励むことができるようになった。米麦はもとより、換金作物、養蚕・養豚などが盛んになり、資材商品の流通上必然的に道路の改修が行われていった。

 明治三十五年(一九〇二)に戸塚・長後間の道路大改修が始まったが、これは戸塚からの入口(旧東海道からの分岐)に連なっている山の横腹に隧道を掘り、一直線に長後へ向かうように計画されたもので、それまでの清源院の脇から入り、矢沢の交差点の下にでる本道を、少しでも短縮させようとしたものだった。踊場の一番高い所は三mほど低く削られたというし、道路を真っ直ぐにするために、あちこちに旧道が残された。高倉に渡る千束橋が廃止され、少し下流に現在の高鎌橋(こうけんばし)が誕生したのも、この時だったのではなかろうか。

 大正二年(一九一三)十一月、道幅三間半(六、三六m)の戸塚・厚木往還が厚木街道と改称され、戸塚町経由(それまでは大山道経由)に決定したということであるから、県道横浜・伊勢原線の「地方主要道」の下地は、この時造られたといってもよかろう。

 大正三年四月、成宮鶴吉が厚木街道に乗合馬車を走らせた。初めはスプリングのないガタガタ馬車だったのが、のちスプリング入りの車に変えられた。同五年には鶴屋自動車会社により、戸塚・厚木間に初めて乗合自動車が運行され、従来の馬車は廃止された。乗合自動車はとこでも手をあげれば停車してくれたという。

平成6年頃の長後街道
平成6年頃の長後街道

 大正九年、県の告示により厚木街道が県道と決定される。大正十二年九月、関東大震災で戸塚の隧道入口が崩壊、のち同十四年十月、隧道が切通しに改められた。この土はトロッコで国道を横切って下り、戸塚小学校の敷地周辺の埋立てに使われたという。

 昭和十年四月、魚住鋳物工場、十月、戸畑鋳物工場(東亜電気と改称、十二年、日立製作所に合併)、昭和十三年、日本光学、日本タイヤ、東洋電機と次々に大工場が戸塚周辺に進出し、そこに通う工員の自転車で朝夕の厚木街道は一杯だった。昭和十一年、鶴屋自動車は武相自動車株式会社に合併されたが、一定の距離間隔に停留所が設けられ、そこ以外では乗車や下車ができなくなったという。

 昭和十六年十二月、太平洋戦争が始まる。燃料の欠乏で木炭や薪を燃料とする乗合自動車が走るようになったが、馬力がなく、坂道では乗客が降りて車を押し上げることもしばしばだった。厚木へ砂利を取りに行く軍用車両が急増した。

 昭和二十年八月、太平洋戦争が終わる。八月三十一日、厚木基地に降りたマッカーサー元帥は、この厚木街道を通って日本最初の宿泊地、横浜のホテル・ニューグランドヘ向かった。この日は厚木街道への立入は禁止され、街道の要所々々には、着剣した小銃を持つ日本陸軍の兵隊が、街道を背にして警戒していた。まだ幼かった中田の小山S氏は、この様子を人家の床下に潜って板のすき間から仲間と息を殺して見ていた。

マッカーサー井戸付近
マッカーサー井戸付近

 中西の八百屋の前で車を止めたマッカーサー元帥一行が、道路の傍らにあった井戸の水をポンプで汲み、米兵たちがかわるがわる美味そうに飲んだこと、また副官がマッカーサー元帥に勧めた井戸水を、幌をたたんだジープの助手席に座り、ドア代わりの鎖に足をかけながら美味そうに飲んでいたことなどを、今でも鮮明に覚えているという。

 以後数年間、日米行政協定道路と名付けられた鶴ケ峰経由の現国道十六号線ができるまで、この厚木街道が厚木基地と横浜を結ぶ重要な道であった。

 買出し部隊、下肥(しもごえ)取りの牛馬車、進駐軍のジープなどに混じって、三輪トラックが流行し初めたのが昭和二十六〜七年頃だったろうか。耕耘機にリヤカーを付けて走ったのは、その数年遅れで、牛馬車は逐次姿を消していった。

 養蚕業が盛んだった明治の中期、中田の青木近右衛門が、おらが村のシルクロードと、いざ鎌倉への道が交差する角に、牛馬車をひく人や旅人が休憩する場としての立場(荷を背負って運搬していた時代に、肩を休めるため杖を腰の所で背の荷物にあてて立てた。一休みすることを「一本立てる」というのは、この所作からでた言葉で、やがて常設の休憩場所を立場というようになった。)を開業し、食料雑貨なども商って長い間人々に親しまれてきたが、時代の変転とともに立場の役割は廃れてしまった。

立場付近航空写真
立場付近航空写真

 現在、泉区のほぼ中央に位置するこの立場は、今や本来の意味からはなれてしまったが、立場という地名で定着している。これからは交通の要衝として、また商業の中心地として栄え続けることであろう。

 相模鉄道の二俣川駅からいずみ野駅間の開通が昭和五十一年、いずみ中央駅までの延伸が平成二年、さらに小田急線湘南台駅までの延伸が確定し、既に工事は進行中である。

 一方横浜国際港都建設計画による市営地下鉄線も、戸塚駅から湘南台駅までの七、四kmの全工区で工事に入り、平成十年を目途に夜を日に次いでの努力が続けられているが、二十二mに拡幅される長後街道の工事と相俟って、それこそ上を下への大騒ぎである。

 厚木街道から長後街道に呼称を変えたこの道は、部分的に完成している所もあるが、全線が開通して面目を一新する日の一日も早からんことを願うばかりである。

 戸塚地方で唄われた焼米搗(やきごめつ)きの歌に

    障子開ければ倉田が一目ヨーホホイ
       なぜか中田は山の陰ヨーホホイ
           ヨッホヨッホヨーホホイ

というのがあるが、いかにも暗くてわびしい。

 馬の背で越えた砂糖砂(さとうずな)(矢部小入口信号付近、この辺の坂が一番急で、土質が白砂のように細かいためにつま先に力が入らず歩きにくかった。この土質を利用してゲストハウス付きのテニスコートが作られた時代もある)の峯も、烏帽子山といわれた踊場の峠も、参勤交代時の助郷の道として、また繭の道として人びとに親しまれて何度も改修が重ねられ、いま地下鉄と共に走る国道級の道に生まれ変わろうとしている。港都の文化を県央へ、県央の清新な風を都心に運ぶ長後街道の使命は大きい。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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