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暮らしと信仰の道「大山道」

第3章 道と川

2.暮らしと信仰の道「大山道(おおやまみち)」

柏尾の前不動
柏尾の前不動

 大山道や大山街道と呼ばれている道が、神奈川県内には幾筋かある。その中で泉区を通っているのは「柏尾通り大山道」と呼ばれ、東海道の柏尾を起点とすることからこう名付けられた。

 この道は横浜や東京東南部の人たち以外に、千葉方面の人たちが舟で海を渡って神奈川の港や杉田あたりにあがり、武相国境を越えて柏尾から利用した人たちが多かったようである。

 大山は丹沢山塊の東端に聳える一、二四六mの山で、円錐形の端正な山体は山岳信仰の対象となるに相応しい美しさを持っている。また相模湾から上がってすぐの山岳であるため、海からの気象的影響を受けやすく、雲が巻き起こって雨を降らすことに由来して、雨降山(あふりやま)や阿夫利山の別名があるように、農耕を営む人たちには、水を司る水分(みくまり)の神としての信仰があり、また伊豆から湘南一帯、千葉方面の漁労民には、船からの方向を確認する山であり、また山体にかかる雲の様子で、気象の変化を知るなど、航海安全の守護神としての信仰もあつかった。

 この道が使われた時代の庶民の信仰は、物見遊山の言葉を生んだ時代にふさわしく、現代のように複雑ではなく明るくおおらかであった。大山信仰は歴史も古く、関東の名山として庶民の厚い崇敬を集めてきたが、江戸期には山頂にあった巨岩を男根に見立てて子授けの祈願をしたり、遊女はこれに商売繁盛を祈ったり、また仁侠(にんきょう)の徒は刀に見立てて一家の守護神として崇めたりもした。

 「商売繁盛」「家内安全」「大願成就」「豊漁祈願」「航海安全」「病気平癒(へいゆ)」「武運長久(ぶうんちょうきゅう)」と余りこだわりもなく賑やかであった。

 戸塚区柏尾町の東海道一号線とバイパスの分岐点に「もちの木」の古木で知られている益田家があるが、その西側に「柏尾通り大山道」の東海道からの分岐がある。大山道はここから、ほぼ現在の阿久和川右岸に沿って付けられた道、現在の県道瀬谷・柏尾線を北西に進む。

 新編相模風土記稿によると、このあたりでの大山道は「幅二間」とある。天保時代で二間幅もある道なのだから主要道であろう。今でいえば県、国道級である。

 上矢部工業団地人口の信号を過ぎると、間もなく泉区に入る。岡津町の「村社三嶋神社」の社号標のある新鷹匠町橋のたもとを過ぎ、「永明寺人口」と看板のある所で、阿久和川に架けられた「不動橋」を渡る。

 永明寺別院前には、不動さまを冠した大山道の立派な道標が建っている。この道沿いの、西田の集落あたりは道路舗装と側溝整備がなければ、昔の大山道の面影を一番残している所であろう。左側の小高い所にある公園に、中川地域の戦没者慰霊塔である「忠魂碑」が建立されている。この碑をすぎると左側に門のある旧家がみられるが、その手前あたりに、むかし大山詣での人たちが休息をとった茶屋があったと地元ではいい伝えられている。

 山手台や桂坂の住宅を見上げるようになったら、道を右に折れて、西田第二遊水池を目指して登り、桂坂の住宅に入る。

 昔このあたりは、西田という地名のように、狭いながら田んぼと古い集落があり、小川の流れも清く、清水蟹やどじようなどもたくさん棲んでいた。後で説明する大山道の男道と女道の分岐もここにあった。その道の俣に石仏が祀られていたが、地形を大きく変える造成工事のため、この位置での奉斎(ほうさい)ができなくなったので、現在中川地区センター内と西が岡のレンタルビデオ店前に仮安置されている。

泉区の大山道の地図

 ここから先は大規模な宅造工事で、地形が全く変わってしまっているが、昭和七年に測量、のち部分修正した五万分の一の地形図を参考に書き起こした地図上で、大山道を辿ってみよう。赤い道がそれである。○1 のあたりから、楢や椚(くぬぎ)の林の中を緩やかに登る道がつけられていた。中川地区センターあたりを通って、今の広い道路の上部を通り、○2 が弥生台東公園あたりで、現在は少し低くなっているが、当時の丘陵上に出る。右から鑓(やり)が坂という急坂が給田(きゅうでん)から登ってきていた。このあたりで一番高い弥生台二〇―一周辺は、ほぼ開発前の地形を残している所であろう。当時これから先は大山や富士山がよく見えた。ここでもう一本、給田方面から尾根の上を通ってきた道が大山道に合流した。大山道は○3 の国際親善病院の屋上部あたりの高さを通り、その裏山でブツッと切られている今の道路につながる。

 ブツッと切れた大山道に出るには、国際親善病院脇の急な坂を登りきり、左に曲がると大山道に出るから、これを左に行けば、大型機械がなければできない宅造工事によって見事に切られた大山道がそこにある。

 右後ろの畑の中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ塚がある。このあたり一帯を中田では「貉塚(むじなづか)」といっていた。昔はむじなが出没するくらい、淋しい所だったから付けられた名であろう。宝篋印塔建立の由来等は定かでないが、中世の遺跡と思われるこの塚は、戦時中の食糧増産時代も、また戦後の混乱時代にも、壊されたり耕やされたりすることもなく、地主によって保存されまた供養されて現在に至っている。これはまさに文化の継承である。

 この塚の脇を通っている未舗装の畑道が大山道の男道で、西田第二遊水池あたりから直接ここに登ってくる、細くて急な坂道であるが、本通りよりずっと近まわりの道であった。女道はもちろん大山道の本通りである。

 この大山道と男道が一緒なったすぐ先で、左の宮の台住宅方面から入ってくる道を昔から「郷境(ごうざけ)え道」と呼んでいる。戦国時代の分国支配の頃の重要な境であったと思われる道で、今でもこの道が町境になっている。

 新編相模風土記稿によると、大山道はこのあたりで道幅は七尺とある。また「村北に秣場(まぐさば)あり、段別七段、阿久和村と入會(いりあい)なり」とあるから、このあたりに秣(まぐさ)にする草原があったのであろう。馬がいかに大事な家畜であったかがわかる。

 ここからしばらくは郷境道と大山道が一緒に進む。やがて真っ直ぐに登って行く道と、左に行く平らな道があるが、真っ直ぐ行く道は郷境道、左に行く道は大山道である。

 舗装された道を真っ直ぐ行くと「泉警察署入口」と表示された信号があり、立場からの県道阿久和・鎌倉線を横断して、緩やかに下る道を行くと右側に横根稲荷神社がある。この神社の境内地に接した所に、昭和三十年代頃まで富士山を信仰した扶桑講(ふそうこう)の富士塚があった。

 ここは標高六三mほどあり、展望のきく所であったので、大山詣の人たちがお参りを兼ねて、山を眺めるために寄り道をしたという伝承がある。

横根からの雪景色
横根からの雪景色

 大山道は、泉警察署入口の信号から立場寄りにある「和泉小入口」の信号で鎌倉道と交差するが、この辺一帯をバス停の名にもあるように芝原(しばら)という。前記した秣場に関係ある地名かも知れない。鎌倉道に出る右側、金子出美さんの屋敷の角地に大山道の道標が大切に保存されている。また左側角の金子才一さんの家は、祖父の代まで大山詣の客を相手に茶店を営んでいたという。

 ここから先の大山道は、約五〇〇mほど農業構造改善事業で作られた広い農道と一緒に進む。大山道は和泉小学校の先で農道と分かれて左斜めに行く。

 新編相模風土記稿には、このあたりで道幅二間と記されている。今はすっかり住宅が立ち並んでいるが、昭和三十五年頃までは畑の中の一本道であった。

 横浜市の放置自転車をプールして置く場所の先に「ごいん場」といわれていた土地があった。「ごいん場」は上飯田の無量寺に入る脇参道の傍らにもあった。

 「ごいん場」と、どのような漢字を書くのか、伝承であるので分からないが、大山詣の人たちに関わりのある場所だったのかも知れない。

 長後街道に出ると、道路の脇に旧道が残っているのがわかる。この旧道も大山道からいえば新道で、明治三十五年(一九〇二)に戸塚から工事が始まり、長後まで完成したのが大正三年であるから、十二年もかかっている。

 ここから先の大山道は、県道と一緒になったり少し離れたりするが、先ず最初の分かれは、区役所庁舎入口の所で県道の北側に移る。現在は県道拡幅工事のためか取り払われていまったが、県道に架かる新しい和泉橋の北側に、幅が狭くて車がやっと通れる橋が架かっていた。これが皇国地誌にも記載されている大山道の「かみだ橋」であった。

 現在の「神田橋」は誠に残念ながら大山道には全く関係のない少し上流の橋に架けられている。

 和泉川を渡った大山道は左に向きを変え、左婆(さば)神社方面からきた古道を右に交えて、坂の途中でまた県道と一緒になる。古い道を示すように、ガソリンスタンドの好意であろう、敷地の隅に堂地が設けられ、近くに祀られていた青面金剛(しょうめんこんごう)などの石仏が安置されている。

 坂を登り切った所で、新田義貞の本隊が通ったと伝承される「たつ道」、現在の環状四号線と交差する。ここを過ぎるとすぐ、県道から左斜めに分岐する道が大山道で、これから先、藤沢市(高座側)に入るまで、県道と一緒になることはない。

昭和35年頃の大山道(上飯田のごいん場付近)
昭和35年頃の大山道(上飯田のごいん場付近)

 このあたり「ごいん場」の坂をくだるまで、岡津町の西田と同様、大山道の雰囲気をよく残しているところであろう。左側に上飯田けやき公園がある。

 坂を下り切ると、南北に通っているのが鎌倉道で、「西のみち」或いは「上のみち」と呼ばれた歴史上有名な古道に出る。前方には境川沿いの肥沃(ひよく)な田園がひろがる。

 大山道はこの鎌倉道と交差して、真っ直ぐ西に進むわけではない。鎌倉道を北に進み、長後街道を横断して無量寺の前を通り、横浜南農協飯田支所の駐車場あたりで西に向かい、当時境川に架けられていた千束橋(せんぞくばし)を渡って藤沢市側に入った。それから先は長後から用田、戸田の渡し(門沢橋付近)上粕屋、子易、大山へと進んだ。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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