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御霊神社を水源とする「宇田川」

第3章 道と川

10.御霊(ごりょう)神社を水源とする「宇田川」

村岡川橋標
村岡川橋標
御霊神社弁天池
御霊神社弁天池

 中田町の北部から東部にかけて、八王子丘陵の支陵と思われるものが芝原、宮の台、富士見が丘、白百合台を通って踊場から汲沢方面に連なっている。

 この丘陵は標高が六〜七〇mあり、中田の北部から東南部に続く地域の分水嶺になっているが、ここを水源とする五筋の流れが中田の河川である。

  1. 白百合母子寮の東側を水源とする流れ。
  2. 東中田小学校の北東部を水源とする流れ。
  3. 御霊神社の弁天池を水源とする流れ。
  4. 宮の台住宅の西側を水源とする流れ。
  5. 中田北西部の芝原を水源とする流れ。

 厳密にいえば、それぞれの流れに注ぐ水源はまだあるが、およそこの五筋の流れに分けることができる。

 皇国地誌ではこの流れを「堀」と記載し、 5. を西堀、 2. を中堀、 1. を堀の名はないが「東原に発し」として三条を記し、何れも流路の長いものだけをあげている。

 この小さな五筋の流れも、中田が住宅地として開発される前は、狭いながらも秋には黄金の稲穂が波打つ水田に沿って流れていた。今はその川筋も、特に下流は水田が埋め立てられて立派な住宅地に変化した。

 この五筋の流れはそれぞれに流れ、川下(かわしも)の汲沢町に入ってから 1. を受け、その先で汲沢の五霊神社方面からの流れを受けてようやく一本の川になり、深谷町に入ると「まさかりが淵」の伝説を持つほどの河川になる。

 現在この川の名は上流まですべて「宇田川」となっているが、皇国地誌の汲沢村の項に、

「村岡川 源は本村西北の方中田村山間に発し潺々(せんせん)たる小流の末或は村内北の方耕地に起り其支流数条を合併し西の方字畑田に至りて始めて川となる」

と記されており、さらに下流の「まさかりが淵」のある深谷村の項には、「村岡川 本村の東の方汲沢村より来り、村内を屈曲して彎(わん)流すること十六町五間三尺にして南西の方上俣野村に入る幅広き処六間狭き処三間最も深き処五尺浅き処三尺水勢緩にして清し舟筏通せず」と記され、中田、汲沢、深谷では「村岡川」としている。

 しかし上俣野村や東俣野村に入ると

上俣野村の項に、
 「宇田川 東の方深谷村より来り、 (以下略)」

東俣野村の項には、
 「宇田川 北方上俣野村より来り、 (以下略)」
 
と同じ川が「宇田川」と記されている。

 これは多分「村岡郷」、「俣野郷」であった分国支配時代の名残りであろう。

 この川の名称については、公式な文書である皇国地誌が村岡川と宇田川を地域で分けて記していることに準拠すれば、俣野までは宇田川でも、深谷から上流は「村岡川」が正しい名称であるといえる。

 この五筋の川の象徴的源流とされているのが御霊(ごりょう)神社の弁天池である。弁天池がいつごろから信仰の対象になったかわからないが、弁天様の厳島神社が御霊神社と同時にお祀りされたと伝えられていることから、弁天様の竜神・水神信仰も御霊さまの信仰と同時に生まれたものと思われる。

 また御霊神社の別当職を勤めていた真言密教三寶院当山派修験の「實相院」という寺院がこの弁天池周辺を水垢離修行の行場としていたことから、雨乞い祈祷や御霊神社祭神の鎌倉権五郎の眼の信仰も生まれ、弁天のいずみの水が眼病治療の霊水として崇(あが)められた。

 現在も池の周囲からたえず湧き出ており、水質もよく透明度も高い。最近はよく知れ渡っており、自然の水を求めるファンが鶴見や川崎方面からも汲みにきている。

 この流れに沿う土地にまつわる伝承など、興味あるものを二〜三書いてみよう。

普光寺分といわれていたあたり
普光寺分といわれていたあたり

普光寺分(ふこうじぶん)

 中田踊場住宅の西端に「鯉久保公園」を持つ住宅がある。帯のように細長い住宅地であるが、これは 1. の流れに沿った水田を埋め立てて造成した土地で、恐らく江戸時代の初期ごろには既に新田開発がされていたと思われる水田で、葛野から幾筋かに別れてのぼる一筋で、開発前は東原の信号あたりで県道を越し、東原住宅の奥の方まで細い水田が入っていた。皇国地誌にも堀の一つとしてこの流れを記載している。

 昔この中に普光寺分と呼ばれていた水田があった。岡津町の普光寺(ふこうじ)の「寺田」だった時代の名残りでそういわれたのであろう。

 中田寺が創建される前だったのか、或いは寺はあったが宗旨が異なったのか、中田に来住した数軒の家は、岡津の普光寺を菩提寺としており、普光寺の墓地内に「中田墓」という一画があったという。この数軒のうちの誰かが、普光寺分を寄進したのであろうが、その後、何百年たっても「普光寺分」という呼び名は残っていたのである。

山神社
山神社

山神社(やまがみしゃ)

 葛野小学校南の住宅地の中に、「やまのかみ」と呼称されている神社が祀られている。「山神前」や「山神後」と字名(あざめい)にもなっていることから考えて、この神社はこの地域で小さな存在ではなかったと思われる。

 祭神は山神であるから大山祗神(おおやまずみのかみ)であるが、この神社が祀られた由緒などは全くわからない。隣の汲沢町には、中田の御霊神社はもと葛野にあったという伝承があるというが、中田にはその伝承はなく、この山神社にもそれを裏付ける伝承等はない。御神体として元徳(げんとく)二年(一三三〇)記の板碑を安置している。

 今はすっかり住宅に囲まれたが、昔は周りが常緑樹混じりの広葉樹林に囲まれており、山神社らしい風情があった。その山林は、開発時に処分されたが、もとは山神社の山林であったという伝承がある。また神社前に広がっていた肥沃な水田の中にも、この山神社の水田があったという。山林がなぜ寺持ちになったのかわからないが、あるいは明治の寄宮時の処置だったのかも知れない。

 山神社は葛野に住む十五軒の氏子が維持管理をしているが、明治の寄宮令(よせみやれい)が発布された時、他の地域の小さな神社や祠が御霊神社に遷(うつ)されたのに、葛野の山神社だけは政府の寄宮令に従わず、現在の三橋昭夫氏宅の屋敷稲荷社に御神体を仮安置した。それから約六十数年後の昭和十二年に、もとの社地であった現在地に社殿を建てて遷座再興(せんざさいこう)した。

 十五軒の氏子は現在も三月と十一月の十七日に、山神社の日待ちを欠かさず催している。

 なお、明治政府の寄宮令に葛野の人たちがなぜ従わなかったのか、その理由については残念ながら伝承されていない。

 

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