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鎌倉への道「かまくら道」

第3章 道と川

1.鎌倉への道「かまくら道」

化粧坂
化粧坂

 かまくら道は鎌倉幕府の成立後、東北や関東・中部地方と鎌倉を結ぶ鎌倉街道として、幕府の発展と共に形成されていった。その他に村々から鎌倉へ向かうそれぞれの道も、後世にかまくら道と呼ばれている。

 泉区内を通るかまくら道は「かまくら上の道」であるが、中世の古道を紙上に再現するのは難しい。現在の道が古道そのままなのか、別の所に作られたのか、確定するにはその証拠が乏しい。道は時代の要請によって変化する。政治的、経済的な変化が道を作り、また道を消滅させてしまう。

 古文書や文献には道の途中の地名が記されているが、地名と地名を結ぶ道がどこを通っていたかが書かれていることはごくまれである。いわば点と点を結ぶ線の位置が不明であることが非常に多い。それを知るには、その土地の伝承に頼るしかない。しかし、これもその道がいつの時代からあったかはっきりしないことが多い。そこで、これを補うものとして、古社寺、道路の遺跡、板碑の分布状況、小字名、城・館跡などがあるが、泉区内ではこれらの傍証も少ない。

 民俗学の柳田国男は「かまくらみち」について、『武蔵野の昔』の中で次のように言っている。

 「この辺りの村々で老人などのよくいふ鎌倉路という古道である。此名が残って居れば必ず昔の奥州街道の宿場であったやうに決定してしまふが、第一それでは奥州街道が何本あっても足らぬ上に、単に鎌倉路といふだけでは、何処からのといふことが分からぬ筈である。もし又其村の近所から鎌倉へ行く道であったといへば是は有得べきことで、つまりは江戸がまだ関東の中心で無かった時代からの通路といふだけの話である。……その道筋を明らかにするには、古今地形の変遷を考察すると共に、更に昔の心持になって旅人の習慣を想像して見ねばならぬ。」

 このように古道を特定し、それが鎌倉街道であることを立証するのは難しいことである。

 かまくら上の道は、鎌倉の化粧坂(けはいざか)から出て境川沿いを北上し、武蔵国府(東京都府中市)から上野(こうずけ)、信濃方面に至る道で、関東平野を南北に結び、戦時・平時を問わず鎌倉、室町時代に大いに利用された道である。新田義貞の鎌倉攻めも、この道を南下したといわれている。

 「鎌倉市史」によると、八幡宮の三の鳥居前を横切る道は、武蔵大路(むさしおおじ)または横大路と呼ばれたといっている。これが上の道の出発点であろう。ここから扇が谷(やつ)に出て、源氏山の北を通る化粧坂を登り、葛原が岡の西に抜ける。

 新編相模風土記稿には、「鎌倉道坤(ひつじさる)(西南)方より東方に貫く」とある。この辺一帯は宅地開発により、古道の面影は全くない。僅かに湘南モノレールの湘南深沢駅北東三〇〇mの線路下に、洲崎古戦場の碑があるのみである。JR大船工場から柏尾川の対岸にかけて、新田義貞鎌倉攻めの古戦場で、「陣出(じんで)」の地名が残されている。

 JR大船工場から対岸の武田薬品の工場あたりは、柏尾川の両岸に広がる湿地帯であったようで、上の道はこのあたりを渡った。武田薬品工場裏の長福寺前から北の日枝神社(藤沢市村岡東)までは、三十年ほど前まで鎌倉道と呼ばれる古道があった。この古道が上の道であったのであろうか。

下飯田の上の道付近
下飯田の上の道付近
発掘された中世のたつ道(中ノ宮遺跡)
発掘された中世のたつ道(中ノ宮遺跡)
上の道と渡井家のあやめ
上の道と渡井家のあやめ

 上の道は、村岡東から北西へ鉄砲宿(てっぽうじゅく)(戸塚区)付近を通り、ここから北上し東俣野町、俣野町に入る。俣野観音堂わきを北西に進むと、和泉川を渡る鍋屋橋を経て飯田へ出る。この鍋屋橋のあたりは、和泉川と境川の合流点に近い氾濫原で、川の流れもたびたび変わり、往時の橋の位置も定かではない。

 また別に、観音堂の手前を東に進み、ドリームランドの正門下を通って通信隊から立場を通り、中田町と和泉町の境を北上して瀬谷区に入り、阿久和・二ツ橋まで行く道もかまくら道と呼ばれている。この道は、柳田国男のいう村から鎌倉へ行く道、または間道(かんどう)であったのだろう。

 鍋屋橋を渡るとすぐに、北から来る直線的な道が交差する。たつ道と呼ばれ、地元では新田義貞鎌倉攻めの道と言い伝えられている。そうだとすれば、これも上の道になる。

 中世の記録や古文書には、時々飯田の名が現れる。街道沿いには多くの集落があるのに、飯田の名が記録や古文書に残されたのは、街道が飯田の集落に沿っていたからであろうし、その集落が他よりも大きいとか、人々の記憶に残る何らかの特徴を持っていたからであろう。

 ここで、上の道を通ったであろう歴史上の人物や事件をあげておこう。

  1. 吾妻鏡によれば、建久四年(一一九三)四月二十一日、源頼朝は下野国(しもつけのくに)(栃木県)那須野、信濃国(長野県)三原に狩倉(かりくら)を催すため鎌倉を発った。この時の道は、真字本曽我物語では、化粧坂を越え、柄沢(鎌倉市)飯田を過ぎて、武蔵国関戸宿(東京都多摩市)に着いたと記している。
  2. 日蓮上人註画讃(続群書類従)によれば、日蓮は九月十六日平塚、十七日、飯田を通り瀬谷に泊まっている。それは弘安五年(一二八二)、身延山を出て生涯最後の旅に上った時である。
  3. 元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻め。前記太平記、梅松論のとおり。
  4. 太平記・保暦間記によれば、建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府の復活をねらって北条高時の子、相模次郎時行(勝長寿丸)は信濃国で兵をおこし、鎌倉へ攻め上った。いわゆる中先代の乱で、上の道を通ったことが考えられる。
  5. 太平記によれば、建武四年(一三三七)神皇正統記の作者で有名な北畠親房の子、奥州の国司北畠顕家は、奥州白河の関を出て利根川を渡り、武蔵国府に入った。そして新田義貞の次男徳寿丸の軍勢と共に、十二月二十八日一斉に鎌倉に討ち入った。北畠・新田の両軍は十万近い大軍なので、上の道、中の道に分かれて進んだことであろう。
  6. 相州古文書によれば、観応(かんのう)元年(一三五〇)鎌倉を出発した足利尊氏の次男基氏の軍勢に参加した善波有胤(伊勢原市善波の住人)の着到状に基氏が十二月二十五日、飯田を発向する際に供をしたと記されている。
  7. 喜連川判鑑(きつれがわはんかがみ)(続群書類従)によれば、文和(ぶんな)元年(一三五二)新田義貞の子、義興兄弟は足利尊氏との武州小手指原(埼玉県)の戦いに敗れて鎌倉に乱入したが、ここでも尊氏の軍勢に押されて退いた。この時の両軍のコースも上の道であろう。その後新田義興らは河村城(足柄上郡山北町)に籠城し、一年余にわたる有名な河村城攻防戦が行われた。
  8. 神奈川県史資料編3上巻によれば、鎌倉公方足利氏に反抗した上杉禅秀の乱で、持氏に味方した関東管領上杉憲基の軍勢に従った烟田(かまた)幹胤の着到状によると、応永二十三年(一四一六)十二月から翌年の初めにかけて、藤沢、飯田原、瀬谷原の合戦に先駆けし、手柄を立てたという。
  9. 神奈川県史資料編3上巻の別府尾張入道代内村勝久着到状によると、同じ上杉禅秀の乱で、武州北白旗一揆(武蔵国北部の武士の集団)の内村勝久は、応永二十四年(一四一七)一月十日、関東管領上杉憲基の飯田の陣に参加した。

 さて、ここからは飯田の集落を通る道を「上の道」として話を進めよう。

 たつ道から分かれて丘陵の裾を北西に進むと東泉寺がある。北隣りの琴平神社は茅葺きの屋根もゆかしく、もとは東泉寺の境内社だったが地域の鎮守となった。

 このあたりから道は右手に続く丘陵地帯と、左手境川の流路に広がる田園の接点に沿って、緩やかに北上する。五〇〇mほど行くと富士塚団地の一角に小公園があり、富士塚城址の碑がある。この丘に鎌倉幕府の御家人、飯田家義(能)の居館があったという。そこが通常の生活の場であったのか、多少の疑問はある。それはともあれ、鎌倉時代の武士の住居跡を城址というのは、形態からいってふさわしくない。

道は丘陵の裾をさらに五〇〇mほど進むと相模七サバの一つ、下飯田左馬神社に出る。神社の西の麓を廻り、新道の西側を小さく屈曲しながら北へ進むと、境川に架かる高飯(たかいい)橋から東へ伸びる道路と交差する所で道は新道と一緒になり、ここから上飯田町になる。このあたりを十五石(じゅんこく)という。

 長後街道の少し手前で右から下りてくる細い道が、江戸時代からの大山道である。大山道はここで上の道と一緒になり、長後街道を横断してから、右側にある無量寺の前に出る。無量寺の入口で新道と分かれた上の道は、丘陵と住宅地の間の道を進み、松風学園(しょうふうがくえん)の入口で西に折れてすぐ北に転じ、坂を登らずに児童公園の中を横切って上飯田団地を西に抜ける。右側に谷(や)の神明神社がある。さらに北西ヘ進むと右側に渡井家の見事なイヌツゲの生垣が続く。五〇mほどでT字路に突き当たる。ここから飯田神社までと、神社の先、いちょう団地までは古い道がはっきりしない。

 飯田神社の先の上飯田公園の西側をいちょう団地に沿って進むと、せせらぎ緑道につながる。道の右側、新幹線の手前の丘の中腹には本興寺がある。緑道を進むと、道は羽太資料館の前を通ってさらに北へ伸び、柳明神社の手前で二俣になる。神社の西に接して北北西に行く道は、台地の上に出てやがて東に折れ、たつ道に合する。江戸時代に村の中心を通っていた道は、八王子道の道標をかねた地神塔のところを真っ直ぐ北に進み、相沢川のふちに出て四〇〇mほどで瀬谷区との境に達する。このあたりで道はたつ道と一緒になる。

 境川の東岸を北上する道は、相模鉄道線瀬谷駅の西側を通り、瀬谷本郷の日枝神社、上瀬谷の妙光寺を経て町田市鶴間の大ヶ谷戸に至る。上の道はここから二本の道が考えられる。一方は境川沿いに原町田を経て町田市山崎の七国山へ、もう一方はつくし野から恩田川、本町田を経て七国山に出る。ここから町田市小野路を経て多摩ニュータウンの中を北上し、多摩市関戸で多摩川を渡って、武蔵の国府があった府中に入り、上野(こうづけ)・信濃方面へと続く。

 

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