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郷土の力士 戸田川・中田川

第4章 文化と産業

2.郷土の力士 戸田川・中田川

戸田川の墓
戸田川の墓

戸田川鷲之助(とだがわわしのすけ)

 戸田川鷲之助は享保二十年(一七三五)に、中田東三丁目十六番の小山家(生家の後裔は小山和男氏)で生まれた。
 中田寺本堂の左側には小山家先代の武八氏が再建した戸田川の墓がある。碑の正面に

正面
  寛政七乙卯年
  強力角力開山戸田川
  実相院真譽高覚了本居士
  九月七日俗名小山権太夫
側面
  戸田川現世ヲ去リテ百四十六年 末裔武八戸田川
関ノ碑多年風雨二晒サレ刻字明ラカナラザルヲ愁ヒ、
再建ヲ計リ、和泉佐藤石材店主広石ニ命ジ完成ス

  昭和四十六年八月吉日
                  施主小山武八

 戸田川は江戸時代の角界の名門、二代目「玉垣」の弟子で、最初は立浪(たつなみ)を名乗り、宝暦三年(一七五三)十九歳で初めて江戸番付に登場する。同五年の春、戸田川鷲之助と改名、宝暦六年五月の上方番付では小結に、また同七年五月の京都興業では関脇で取っているが、江戸では六月に二段目筆頭になった。二段目というと、今の十両筆頭と理解しがちだが、当時は幕内の枚数も少なく、二段目といえどもれっきとした関取で、大関にも対戦しているので、現在の幕内と同等の実力を持っていた。

 宝暦八年五月の大阪堀江での相撲では、幕尻に名が見え、頭書(あたまがき)(出身地)は江戸とある。十月の江戸深川の興業では前頭西四枚目に躍進し、同十年に前頭筆頭となる。同十一年十月場所は西二枚目で七勝一敗(当時は八日制)という最高成績を収めた。明和三年(一七六六)三月、玉垣鷲之肋に改名、同四年三月小結、同七年三月に現役を引退した。

 力士出身地の頭書であるが、当時は正確に実際の出身地を頭書とした訳ではなく、例えば江戸周辺の出身でも江戸としたり、地方の出でも江戸に住んでいて入門すると江戸になったりした。また大名のお抱え力士は出身地に関係なく大名の藩名を記すこともあった。

 戸田川の場合、明和二年の京都の興業では、頭書が勢州(三重県)とある。勢州としたのは彼の妻の里が伊勢の松坂だったからで、因(ちな)みに戸田川の墓は松坂市営墓地内にもある。妻が自分の住む近くの清光寺(現在は区画整理のため市営墓地に移転)に墓を作ったのであろう。彼は江戸と上方の両方で相撲を取っていたようで、江戸では頭書を江戸、上方では勢州としたことが多かったようである。当時は江戸の外に大阪、京都、南部(岩手)などにも職業相撲集団があり、中でも江戸と大阪は力士の行き来が多く、その両者は互いに肩を並べ、組織的にも充実していた。

 年寄玉垣になったのは明和七年頃で、同年十一月の番付に名がある。寛政四年(一七九二)三月に、角界の第一人者が名乗る、三代目雷(いかづち)権太夫を襲名し、会所筆頭(現在の相撲協会理事長に相当するか?)兼差添の要職についた。この時、将軍徳川家斉の上覧相撲を実現させ、相撲の黄金時代を築いた。

 戸田川は現役時代に稽古熱心な力士で知られ、いかなる強豪力士にも研究に研究を重ね、必ず一度は相手を倒したという。また、力士の養成にも一見識を持ち、横綱免許の大関小野川、大関鷲ケ峰、四代、五代の戸田川など、数多くの力士を育てている。寛政七年三月に会所筆頭を辞め、その年九月に他界した。

 

 戸田川にはこんな話が伝わっている。戸田川のイラスト

〈その一〉

 大山詣での際、お百度参りの心願をかけた戸田川は、毎日家から稲の束を持ってお参りに行き、途中戸田の渡しの清流で洗ったものを大山の神前に供え、十束、二十束とたまるごとにそれを差し上げて力をつけ、ついに百日目、百束の稲束を高々と上げて大願成就した。

〈その二〉

 上方の相撲で彼の地の名だたる大きな力士と取組んだ時、相手は一笑して戸田川を頭上高く差し上げ、「どうだ小童、関東が見えたか」と、今にも投げ出そうとした時、戸田川はとっさに相手の髻(たぶさ)をくわえると、首の自由を失った相手は、戸田川が落ちる前に両手を着き、負けとなった。場内騒然とした中で戸田川は「これは関東の髻くわえだ」と悠々と引き上げた。しかし珍手に負けた上方力士は納まらず、すぐ追手を差し向けた。戸田川は裏街道を通って野宿を重ねて、やっとのことで関東に引き上げたという。

〈その三〉

 実家の父親が屋敷の大木の陰で風呂に入っていた。突然雷が鳴り大雨が降ってきた。戸田川は父親を風呂桶に入れたまま家の中の土間に運んだ。そのとたん、屋敷の大木に雷が落ちた。父親は息子戸田川の怪力のため災難を免れた。

中田川文藏
中田川文藏

中田川文藏(五代目井筒親方)

 本名宮本文藏は嘉永四年(一八五一)四月三日、中田町三三八二番地、宮本玄之進正永の長男として生まれ、村岡川の源流で産湯をつかった。性格は温厚で体格は良かったが、特に大柄というほどではなかった。幼少のころから、秋祭りの奉納相撲や村の若衆の相撲を見るのが好きだった。若者になって相撲をとるようになると、上位に位置することが多くなった。人から角界入りを勧められが、長男という立場上簡単にいかなかった。しかし岡津学舎の教師を勤めていた長江湊(いたる)に嫁いだ妹が、湊を説得して宮本家を継ぐことが決まり、文藏の角界入りが実現した。文藏は当時の高砂部屋に入門し、「鈴嵐(すずあらし)文藏」のしこなをもらって稽古に励んだ。

 明治十六年(一八八三)に、鈴嵐文藏から「中田川文藏」としこなを変え、幕下に昇進した。その後十一場所中、幕下中下位を上がったり下がったりしていたが、師匠の高砂親方が飛ぶ鳥をおとす勢いだったので、その助力もあって年寄りになることができた。しかし明治二十二年になると、規約改正があり、現役力士で年寄名を名乗る二枚鑑札が許されなくなったため、この夏場所限りで引退して、五代目井筒を襲名した。文藏の弟弟子に当たる名横綱の西の海は、引退後六代目井筒を継いて部屋を発展させたが、以後鹿児島県出身者が多い部屋で、名力士を輩出している。宝暦年間(一七五一〜六三)に井筒伴五郎に始まるこの部屋は、年寄「錣(しころ)山」となった霧島や突っ張りで有名な寺尾のいる部屋である。

 さて中田川文藏は明治二十九年一月に年寄役を引退したが、その後も本名の名で協会の仕事を手伝っていたと記録されている。宮本家に残されている、大正五年(一九一六)一月記の日本相撲奨励会からの感謝状に、支部長と記されていることから、相当角界に情熱を注いでいたのであろう。

 中田川文藏には子がなく、妻が宮城県仙台の出身であったので、廃業後は仙台で暮らしたが、毎場所ごとに相撲を見にきては実家の宮本家に泊まり、協会からの付き人と思われる力士二人が付添っていたという。

 現在、宮本家には「雄譽良勝居士」と記された位牌と、紋服姿の写真(上段参照)が残されているが、古武士然とした気品が漂い、若かりし頃の年寄役を偲ぶに充分である。大正八年四月六日死去した。墓所は仙台にある。

 後年、一門の者が古い化粧まわしをひもといたところ、ボロボロになった神符が編み込まれていて、慎重に判読したところ御霊社と解明された。その社はどこかと調べた結果、中田川のしこなから中田の御霊神社とわかり、文藏の敬神の念の深さに感じいったという話も聞かされた。

 

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 泉区制十周年記念出版
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    −泉区小史−  より



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