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鎌倉時代から江戸時代までの泉区

第1章 泉区のあゆみ

鎌倉時代から江戸時代までの泉区

大橋 俊雄 (泉区歴史の会会長・文学博士)

 鎌倉時代は鎌倉に幕府が置かれていた関係で、文献も残っているし、伝承も伝えられているが、室町時代になると極めて少ない。室町時代も末には小田原に北条氏が築城し関東一円に勢力を拡張していた。この時代を小田原北条時代、または後北条時代と呼んでいる。北条氏は長氏(早雲)氏綱、氏康、氏政、氏直と五代続いたが、天文十二年(一五四三)ごろ当地を支配していたのは、『小田原衆領役帳』によれば本光院殿衆の平山源太郎が上飯田、玉縄衆の川上藤兵衛が下飯田、御馬廻衆の笠原藤左衛門が和泉、江戸衆の太田大膳亮が岡津を知行していた。ここで玉縄衆とか江戸衆というのは、いざ戦いということになったとき、玉縄城主や江戸城主の支配下に組み入れられて指揮を受け戦った武士であり、御馬廻衆は北条家の直轄部隊であった。本光院殿は北条氏綱の三男彦九郎為昌のことである。小田原城が豊臣秀吉方の攻撃によって落城したのは天正十八年(一五九〇)七月五日であり、八月一日、小田原城攻めの功によって徳川家康は北条氏の旧領関八州を与えられて江戸城に入った。

 家康が新政策をすすめるにあたり、新政策の計画と助言をつとめた有能な農政家がいた。当時そのような人を代官頭と呼んでいた。また武将として戦陣に臨んだが、一城を構えるほどには勢威を持たない士豪や武士は、徳川氏のもとに再編成され、代官として直轄領の支配をゆだねられた。その代官の上にくらいして、代官を支配したのが代官頭で、代官頭の一人に彦坂小刑部元正がおり、本正は岡津に陣屋を構えて住していた。東海道五十三次の一つに、藤沢宿の反対があったにもかかわらず(保土ヶ谷宿は賛成)戸塚宿が設けられたのには、彦坂の力が大であった。彦坂の妻はのちに戸塚宿の本陣をつとめた沢辺宗三信久の妹であったこともその一因となっていた。

 江戸初期、当地に住していた領主には黒田五左衛門光綱(岡津)、安藤治右衛門正次(阿久和)、石巻下野守康敬(中田)、松平勝左衛門昌吉(和泉)、佐野内蔵允正直(上飯田)、筧助兵衛為春(下飯田)がいた。

 江戸時代当地に住んでいた多くの人は農民で農業を主とし、米、麦、粟、稗(ひえ)、甘藷(かんしょ)などを栽培し、中には余業として綿打、先山(さきやま)、大工、木挽(こびき)、鍛冶、髪結もいたが、農民には耕作地に対する年貢の納入と助卿役の負担、宿場の掃除の分担も課せられていた。農民のなかには農業の傍ら俳諧をたしなんでいた春鴻(しゅんこう)(下飯田)、芦川、舟遊(中田)、花王(岡津)といった富農クラスの文化的素養を持っていた人もいた。春鴻は下飯田村杉の木に美濃口源左衛門の子として生まれ、松露庵系に属し相模俳壇の雄として中央にまで知られていた。江戸や小田原をはじめ各地の句会にも招かれ、句集も残している。

 

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平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版

  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より

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