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東海道 保土ケ谷宿

初代広重 東海道五拾三次之内 保土ケ谷
東海道五拾三次之内 保土ヶ谷(初代広重)
初代広重 東海道 五 五十三次之内 程か谷
東海道 五 五十三次之内 程か谷(初代広重)

旧東海道 ほどがや かわら版
〜6ステップで分かる旧東海道と保土ケ谷宿〜

保土ケ谷は、旧東海道という歴史的資源を有し、約400年前には宿場町として栄えた歴史があります。

保土ケ谷区では、こうした貴重な歴史的資源を活用したまちづくりを進めています。パネルイメージ図
この貴重な資源を広く知っていただくために、
旧東海道や宿場の仕組みを分かりやすく紹介した
パネル「旧東海道 ほどがや かわら版」を製作しました。

「歴史は難しそうでちょっとなぁ・・・」という方でも、
6ステップで分かる内容になっていますので、
学校の授業やイベントなどでぜひご活用ください。

学校や公的なイベントなどで展示していただける
A1サイズのパネルの貸出も受け付けています。
詳しくは区政推進課企画調整係までご相談ください。  

  1. pdf旧東海道と宿場制度(PDF形式 532KB)
  2. pdf保土ケ谷宿の成り立ちと特色(PDF形式 1,113KB)
  3.  pdf宿場を知る七ワード(PDF形式 627KB)
  4.  pdf保土ケ谷宿 見どころ(PDF形式 709KB)
  5.  pdf保土ケ谷宿で活動している団体(PDF形式 505KB)
  6.  pdf旧東海道と浮世絵(PDF形式 4,307KB)
    

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東海道と横浜の宿場

 1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入ってから、保土ケ谷付近も小田原北条氏の支配から徳川氏の支配下に置かれることになりました。
 1600(慶長5)年、関ケ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は次々と新しい政策を展開しますが、街道の整備もその一環として進められ、1601(慶長6)年に東海道の伝馬制度が定められました。当時は江戸と京都の間には37の宿場が置かれ、横浜には神奈川宿、保土ケ谷宿の2宿だけでしたが、その後1604(慶長9)年に戸塚宿が加わり、横浜の三つの宿場がそろいました。
 東海道の宿場はその後も増え、1624(寛永元)年には江戸〜京都間に53の宿場が整備され、東海道五十三次となりました。


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保土ケ谷宿のなりたち

 江戸の日本橋を出た旅人が品川・川崎・神奈川宿を経由して、4番目の宿場として到着するのが保土ケ谷宿。日本橋からの距離は八里九丁(約32km)。成人男性が1日に十里ほど歩いたといわれる当時では、最初の宿泊地としては少し早い宿場でした。しかし、高齢者や出発の遅くなった旅人にとっては、江戸を出て最初の難所と言われた権太坂を越える前の鋭気を養うのにちょうどいい休息の場だったのかもしれません。
 現在、旧東海道として知られているのは、天王町駅前から保土ケ谷税務署の前を通り、国道1号を通過して元町橋に出るルートですが、1601年の宿場成立当時はもっと西北の位置を通り、宿場も権太坂に近い元町にありました。
 その後、1648(慶安元)年に東海道のルートが変更されるとともに、宿場の位置も移転し、それまで宿場があった場所が元町と呼ばれるようになりました。(なぜルートが変わったのか、変更前のルートがどこを通っていたのかは正確には分かっていません。)
→移転後の保土ケ谷宿の場所はPDFこちら(PDF形式 759KB)をご覧ください
このPDFファイルは「広報ほどがや区版(平成16年9月号)」の情報です。
イベントなど、すでに終了している情報もあるのでご注意ください。


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宿場の主な施設

本陣と脇本陣 参勤交代の大名や幕府の役人、公家などが宿泊しました。
保土ケ谷宿には本陣が軽部本陣の一軒のみ、脇本陣は藤屋と水屋の二軒がありました。
茶屋本陣 本陣に匹敵する規模の茶屋で大名も利用しました。
旅籠屋(はたごや) 一般の旅人が宿泊しました。
茶屋 旅人の休息のためのお店です。
問屋場(といやば) 公用の荷物を運ぶ人や馬の手配をするところです。
助郷会所(すけごうかいしょ) 宿場で賄いきれない人馬を周辺の村々から動員するための手続きをしていました。
高札場(こうさつば) 幕府の法令を張り出す場所で、宿泊代なども示されていました。
本陣の復元模型(保土ケ谷宿の立体模型。左上が本陣。)

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立体模型の制作

 平成16年8月、保土ケ谷小学校と岩崎小学校の6年生が、保土ケ谷宿400倶楽部とともに制作した保土ケ谷宿立体模型が完成しました。
 この立体模型は、保土ケ谷の建築家が作成した図面をもとに復元したもので、縮尺は180分の1。1cmが1間になるように設計されています。
 保土ケ谷宿400倶楽部の指導のもと、保土ケ谷小学校と岩崎小学校の6年生がそれぞれの学区にあたる部分を分担。本陣や脇本陣などの大きな建物は400倶楽部の有志が制作しました。バルサ材で組み立てられた一軒一軒の模型は、本陣を中心とした保土ケ谷宿の姿をみごとに復元し、多くの旅籠屋(はたごや)や商店が建ち並び、人や馬が行き交う当時の様子がよみがえります。


立体模型
本陣の後方から神奈川宿方面を見る
  宿場の模型づくり
  岩崎小学校での制作風景(左端が村田代表)

保土ケ谷宿400倶楽部 村田代表のひとこと
 総合学習の時間に子ども達と一緒に立体模型を制作しました。子ども達が自分の手で、正確な縮尺で当時の町並みを再現していくのですが、本当に楽しそうに取り組んでいました。


正面に本陣を望む

 神奈川宿方面から帷子橋を渡ると、本陣の大屋根が
遠くから眺められました。

 江戸時代の人々が見ていたのは、もしかすると
こんな風景かもしれません。

※左の写真は、模型の写真と現在の風景を合成したものです。



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権太坂と境木(武蔵と相模の国境)

 正月の箱根駅伝でも有名な権太坂。現在の国道1号よりも西側に江戸時代の東海道のルートがあります。
 かつての権太坂は一番坂、二番坂と急勾配が続き、江戸を出発した旅人が最初に迎える難所として知られていました。
境木の浮世絵 また、この難所を登り切ると武蔵国と相模国の国境にあたる境木にたどり着きます。境木はきわめて眺望が良く、難所を越え一息つける場所として茶屋が軒を連ねていました。その様子は浮世絵にも描かれています。
境木からの眺め 人々は境木地蔵尊に詣でたり、名物の牡丹餅を食べながら遙か西に見える富士山を眺め、これからの旅に思いを馳せていたのでしょうか。
 特に江戸で生まれ育った人にとっては、生国である武蔵国から他国に入るという感慨を持ったようです。



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旧東海道 歴史マップ

 保土ケ谷宿が宿場として町並みを整えていたのは上方見附跡(かみがたみつけあと)から江戸方見附跡(えどかたみつけあと)までの間約2キロで、この間を宿内(しゅくうち)と呼んでいました。宿内には本陣を中心に旅籠屋(はたごや)や商店、茶屋などが並んで大変にぎわっていました。

 この宿場の様子を伝える建物といえば今は本陣跡にある門や本金子屋(旅籠屋)ぐらいですが、これらの史跡や寺社、石碑などを巡りながら区内の散策が楽しめるように、『旧東海道歴史の道 案内サイン』を設置しました。案内サインは4種類、ちょっと遠慮がちに立っているものもありますが、ゆっくり探して見てください。

 また、保土ケ谷区内の歴史を研究している区民の方と共に、歴史マップを作成しました! 是非、マップを手にして散策してみて下さい!

作成協力:保土ケ谷宿四00倶楽部、ほどがやガイドボランティアの会>
(平成23年1月第3版)



【 表 】
ここをクリックすると拡大地図が見られます

PDFここをクリックするとPDFファイルで拡大した地図を見ることができます↑
(PDF形式 831KB)



【 裏 】
ここをクリックすると拡大地図が見られます

PDFここをクリックするとPDFファイルで拡大した地図を見ることができます↑
(PDF形式 890KB)



案内サインの種類
総合案内板
歴史の道の全容と史跡のポイントが記されています。
総合案内板
標注標注
史跡に標柱を立てています。側面に簡単な説明が入っているものもあります。
史跡案内板史跡案内板
史跡の説明や当時の宿場の様子を説明しています。
誘導サイン誘導サイン
要所要所に立てられた誘導サイン。主な史跡の方角と、目安となる距離が記されています。



※このページに使用している浮世絵は、横浜市歴史博物館発行の「東海道宿駅制度400年記念 PART2 東海道と保土ケ谷宿」から転載しています。

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