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震災・戦争・復興そして日本第2の都市へ 


開業当時のマリンタワー1923(大正12)年9月1日、関東平野南部を震度6の大地震が襲い、横浜は建物の倒壊や火災で壊滅的な被害を受け、横浜経済は崩壊し、多くの外国商館も東京・大阪などへ移転しました。

しかし、その後市民の努力により復興を遂げ、1930(昭和5)年には市内のがれきの埋め立てでできた山下公園が開園、1935(昭和10)年には、くじらを山下公園前の海に泳がせるなどのイベントを中心とした復興記念横浜大博覧会を開催しました。また、横浜港からの輸出品目としては、生糸貿易が中心であったのが、1942(昭和17)年ごろから機械類、金属製品及び鉄鋼などが貿易の主流となって、現在に引き継がれています。

この間、横浜は市域を拡大し続けました。1939(昭和14)年の大規模な合併によって、現在とほぼ同じ市域になり、1942(昭和17)年には人口100万人を突破しました。

また、時代は金融恐慌、失業者の増大、軍需の拡大と続き、第2次世界大戦へと突入しました。そして、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲までの度重なる空襲によって、被災人口約40万人、少なくとも約1万人が死亡し、横浜の中心部は焼け野原になりました。

戦争終結とともに、横浜の約27%、港湾施設は約90%が連合軍に接収され、横浜の復興は他都市に比べ大幅に遅れました。しかし、焦土と化した横浜から市民は立ち上がり、1949(昭和24)年には、野毛や反町で日本貿易博覧会が開催され、横浜市民を元気づけました。一方、横浜港では海外から多くの客船が訪れたり、ハワイや南米などに新天地を求めた移民船が大さん橋から出航したり、人の交流も盛んになりました。

また、横浜で生まれた美空ひばりが、日本の戦後の歌謡界へ新たなる旋風を巻き起こしたり、ジャズやリズム&ブルース等がアメリカから横浜にいち早く入り、横浜発の文化として日本中へ広がっていきました。

1958(昭和33)年、横浜は開港100年目の年を迎え、開港百年祭が開催されました。これを記念してマリンタワーや横浜文化体育館などが建設され、氷川丸が山下公園に係留されました。

日本の高度成長期への突入とともに、横浜の沖への埋め立てが加速化しました。そして昭和40年代の横浜港のコンテナ時代の到来によって、大型港湾化が推進されました。また、1968(昭和43)年には人口200万人に達し、人口の急増に併せて市郊外での団地や宅地造成が行われ、ベッドタウンそしてニュータウンとしての新たなる横浜の都市像を形成しました。そして、1978(昭和53)年には、人口は272万人に達し、全国第2位の規模をもつ大都市へと成長しました。



【参考】「映像で見る横浜の接収と復興」(横浜市都市経営局基地対策部サイトへのリンク)はこちら